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「好き」は外的に左右されればされるほど、わからなくなるもの。
さて、ここからは、好きなものがわからない人に当てはまる、いくつかのパターンをお伝えします。
そのパターンを知ることで、ほんとうにそれが好きなのか、そうでもないのか、自分を客観視でき、自分が「好き」という意味を複雑にしていたことに気づけるかもしれません。
パターン①:条件ありきの好き。好きというものに「付加価値」や「生産性」を求めている。
「好き」ってなにはなくともそのために夢中なって行動ができたり、時間もエネルギーを費やし、努力や探究を重ねることができます。それが結果的にすごい成果を出したり、世の中の役に立つことってありますよね。
でも、それは後からあくまでついてきた「結果」や副産物にすぎません。
しかし「好きなものがわからない」というパターンの中には、それがなにかの価値を持っていたり、生産性があるものだから「好き」と思っている場合があります
ほんらい好きなものは、自分が感じるものなので、〇〇だから好きという具体的な理由はいらないし、なにかの「価値」や「結果」を生み出さなくたっていいんです。
これってすごくシンプルなんだけど、とても大事な大前提なんですよね。
でもこの場合、好きなものの中に成果や生産性を求めることを優先してしまい、純粋に「好き」でいる状態が難しくなってしまいます。
しかも無意識にそうなってしまっているため、なかなかそれに気づけないまま、外に「好きなもの(役に立ちそうなもの)」を一生懸命探しに行く人が多いのです。
まさにわたしもそうだったのですが、わたしがこうなった過程では父親(家庭環境)の影響がものすごくありました。
父’S スペック
・料理人として海外で働いて日本に戻り、某超有名高級店で総料理長まで昇りつめる。
・社長候補としてマネージメントも任される。しかし料理がしたいからと最終的に独立。(子ども3人抱えながら新天地で起業)
・とにかく人生好きなことやりたいことをやる、な人。
子どもながら「好きなものをやる、やりたいことをやる」を地でいく、充実感をもって仕事で成功している、ということが伝わってきて、父はすごい人だ、って憧れてもいたんですよね。
けれど同時に、父をみながらいつのまにか「好きなものをやる」=「それで活躍すること」「成功すること」という強烈な思い込みが生まれていました。
無意識のうちに好きなものというのは、なにか役に立つものであったり、価値があるもの、生産性があるものでないと、と思うようになっていたのです。
子どもの家庭環境での親の影響とか考え方って、ほんとに無意識レベルでの影響力がすごい!
これが、まさにわたしの20年にも及ぶ「好きなものがわからない」の大きな原因になって、かつ「好きなものを仕事にせねば」の呪いになるとは思いもしませんでした(笑)
でもそもそも「好きなもの」の定義にもどれば、生産性がなくても、世の中の役に立たなくても全然良いんです、本来は。
「好きなもの」はただ感じて楽しめるものでいいし、理由だっていりません。好きな理由を説明できなくても、大丈夫です。安心してください。
なので、あなたもまず「好き」に余計な「価値」を求めていないか?「好き」にいろいろな理由をつけようとしていないか、いちど自分を振り返ってみてください。
△△をやっている自分が素敵、モテる、自慢できる、評判がいい、社会的意義がある、そういうものを外してもなお、自分がやり続けるもの、心惹かれてしまうものはないか。
生産性や付加価値を取り外しても、やり続ける!と思えるものは、あなたにとって大事な「好きなもの」なはずです。
パターン②:その「好き」をすることで、他者に認められる、喜ばれる、評価されるなどの承認欲求を満たすための道具にしている。
子どもの頃、絵が上手に描けてすごいと褒められた。歌がうまくて才能あるねって褒められた。ピアノが上手と褒められた。
楽しくて夢中にやっていたことで、もしくはそうでなくて嫌々やっていても(笑)なにか自分がやっていたことで、そんな風に褒められたことってきっとあるのではないでしょうか。
他人が褒めてくれる、認めてくれる、とくに親がそう言って喜んでくれるってやっぱりうれしいもんだしね。
ただ、それがいつの間にか「好き」がそれを得るための道具になってしまうと、最初は純粋に「好き」でやっていたことでも、それが「好きなもの」なのか分からなくなることがあります。
「好き」と「承認欲求」がセットになってしまって、こんがらがるパターンです。とくに自己肯定感が低い人などは、けっこうハマりやすいかもしれません。
「好き」って本来は他者目線、他人の評価がいっさい必要ない、あくまでも「自分の内側で感じる」もの。
でも、そこに他人の評価を求めるようになると、他者の基準でそれが良い、悪いと判断されることで行動をしてしまったり、他人を喜ばせるためにやりだすようになるのです。
当然その「好き」は他者の評価によって、左右されるようになります。 そしてそれをすることに対して他者からの「見返り」も求めるようにまでなるかもしれません。
そして「感じる」ことよりも「考える」ほうが大きくなっていくと、だんだんとそれが「好き」なのか自分でもわかなくなってしまうのですね。
「好き」の主体は、自分自身がそれをやっていると、触れていると、わくわくするから、惹かれるから「する」んです。誰のためにするものでも、誰に言われたからするものでも、ありません。
やっているうちに、それが誰かのために、社会のために、となっていたり、誰かに喜んでもらえるからすると、順番が逆になってないか?をいちど見つめてください。
または最初は楽しくやっていたはずなのに、途中でやめてしまったものはなかったか。それはなぜだったのか?
そういえば、ほめられなくても、認められなくても、なんかこれに惹かれて、夢中になってよくやってたなあ。こういうことよく考えてたなあ、というものも思い出すかもしれません。
それはあなたの本来の「好き」の原石かもしれないです。
パターン③:「好き」を無意識に封印、ダメなものとして抑え込む。
これは、幼少期に自分の好きなものを親や誰かに否定されたり、禁止されたり、とにかくそれには価値がない、ダメだと思い込んでしまうときに、とくに起こりやすいです。
こんなことやっちゃダメ!って言われたり、そんなつまらないことやっているの?とか、小さい頃に周りから言われたことって、そのまま素直に受け取っちゃうんですよね。
また自分には理解できないけれど、その人にとっては好きでたまらない、夢中になるものってありますよね。
でも、それが理解できない、もしくは世の中や社会的、または親の価値基準的に「よろしくない」「変わってる」と思われてしまうものもあって、好きだって言えなくなることもあります。
そうなると自分の「好き」ってダメなんだと、無意識レベルで抑え込んで分からなくなってしまうことがあります。
わたしは子どもの頃から、理由はわからないけれど、スピリチュアルやマインドについて興味があり、中高生のときにはスピリチュアルな本を読んでいたり、大学生でヒーリングを習いに行ったりしていました。
社会人になってからも、吉方位やカードリーディングなどを習ったり、いろんなワークショップに行ってみたり、それこそ20年以上学んだりしていて、おそらくそれだけで総額200万円以上使っていましたね~。
それにも関わらず、堂々とこれが「好き」とは言えなく、というよりそれが「好きなもの」とすら気づいてなかったのでございます。。。
当時は、占いですら雑誌の後ろの方の星占いコーナーがあるくらいだったし、ヨガもまだまだ市民権はなく、マインドフルネスという言葉は日本にはなく、瞑想はインドで修行でもするの?的なマニアックな領域。
ついでに某カルト集団が事件起こしちゃったこともあり、マインドとかスピリチュアルとかに興味がある、なんて言おうものなら、まあ、たいへん。今の時代はほんとうにびっくりするくらいそういうものに寛容になっています(笑)
そんなわけで、「価値があるものでないといけない」×「おおっぴらに人には言えない」が重なったこともあり、これだけやっておいて長いことわたしの「好き」認定がおりていませんでした。
周りから良いイメージを持たれていなかったり、自分でもたいしたものではないと思っているうちに、それを好きなもの、と気づけなくなる、もしくは認めなくなっているものってけっこうあるもの。
人に言えないけれど、こういうことをよくやっていたことはないか。まわりを気にしたり、これって変なのかなって思って、やりたい気持ちを抑え込んでしまったものがないか。
あなたも、ずっと昔から心惹かれるもの、気になってやってしまうこと、没頭していること、夢中になっていたこと、時間もエネルギーをかけても惜しくなくて、やっていて楽しいことはありませんでしたか?
じっくり胸に手を当てて、思い返してチェックしてみましょう!
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